「ヤマメに学ぶブナ帯文化」

12.二一世紀へ向けて
猟が効くようになったコリューシは、いつも獲物を仕留めて持ち帰る。奥さんは竹で編んだショウケと呼ぶ籠に獲物の肉を入れて頭の上にのせ、町へ売りに出掛ける暮らしが続いた。

 ある時、肉を売りに下る途中橋の上で一休みして川をのぞき込んだ。すると頭の髪の毛が抜けてしまっている姿が水鏡に映った。ショウケを頭にのせているので髪が抜けたのだ。その醜くなった姿にびっくりしたコリューシの奥さんは「女でありながらこれはみっともない恥ずかしい」と嘆き悲しんでとうとう身投げをしてしまった。

 その亡骸はどんぶらこどんぶらこと流れに流れて海に出た。海のオコゼはそのコリューシの奥さんの化身であるという。このため、オコゼを白紙に包んでそっと山の神にお礼参りするのだ。すると山の神は、再び獲物を授けてくれる。これが「オコゼまつり」の物語である。

 これは、ウウリューシのように強欲であってはならないという戒めと、コリューシのように山の神を大切にしなれけばならないが、暮らしに必要なもの以上に獲物を捕るとコリューシの奥さんのようになるという戒めでもある。山の神を「自然」に置き換えてみるとわかりやすい。

 秋、紅葉が終わると木々は落葉して森は裸になり、やがて雪にすっぽりと覆われる。鳥たちはどこかへ飛び去ってしまう。そして、春が来ると一斉に森の若葉が芽を吹き、鳥たちも帰ってくる。山川草木がいきいきとして成長していく。「オコゼまつり」はこうした自然の営みの中に組み込まれた生き方を説いた「暮らしの哲学」ではないかと思う。

 天然ヤマメは、天候の変化に敏感で極めて警戒心の強い野性的な魚である。養殖で一番難しいのは餌づけであった。市販の配合飼料は食べず、魚体重が二cにもなると敏捷に泳ぐようになり人陰に驚き、餌を食べなくなってしまう。それを密度を高くして野性化を押さえ養殖魚として開発してきた。

 今は、固いペレットの配合飼料を食べ、池の縁に人陰が映ると餌を求めて水面に飛び跳ねて集まる。本来は天候の変化を予知して行動する魚が天候の変化を感じなくなったようだ。ミミズに驚いて逃げ、自然産卵の行動も弱くなった。野性の逞しさが消え、自然界では生きていけない種となりつつある。

 養殖ヤマメと人間世界を重ねてみると不安がよぎるのである。自然界から隔離された都市文明は、人間にとって果して幸福なことであろうか。闇夜や満月を感じなくなり、自然界を体感出来なくなった人間は、自然と共生する哲学も喪失した。やがて正しい人間の遺伝子を後世に伝えることもできなくなるだろう。野性を喪失した養殖ヤマメは人間のあるべき姿を問うているような気がするのである。

 まもなく二一世紀を迎える。二一世紀は、森を修復して清流の溢れる美しい自然を取り戻し、魚類の生息する渓流を再生することから始めようではありませんか。自然保護からより積極的な自然再生へと養殖業界からのろしが上がることを期待したい。長い間つたない文章にお付き合い頂いて感謝します。皆様どうぞよいお年を。

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